フランツ2世カルトQ


生涯


フランツ2世(1792年)
トスカーナ大公レオポルド1世(後の神聖ローマ皇帝レオポルト2世)の長男としてトスカーナ大公国の宮廷が置かれたフィレンツェで生まれた。母はスペイン国王カルロス3世の娘マリア・ルドヴィカ。祖父フランツ1世の帝位を継いだ伯父のヨーゼフ2世に子供がなかったことから、フランツは未来の帝位継承者と見なされ、成長するとウィーンで教育を受けた。1790年に伯父が、帝位を継承した父が2年後の1792年に死去したため、即位した。トスカーナ大公位は弟フェルディナンド3世が1790年に継いでいる。なお、伯父の死の2日前に最初の妃エリーザベトを、翌1791年にエリーザベトとの間の唯一の子である長女ルドヴィカを、父の死の2ヵ月半後に母マリア・ルドヴィカを喪っている。
即位した際、フランス革命が進行中であった。レオポルト2世は前年の1791年にピルニッツ宣言を行って革命への介入を宣言していたが、フランツ2世の即位から間もない1792年4月20日、フランス革命政府はオーストリアに宣戦布告し、フランス革命戦争が勃発する。翌1793年にルイ16世が処刑されると、第一次対仏大同盟が結成されるが、その一方でオーストリアはポーランド分割にも関与する(1795年)。
その後ナポレオン戦争に巻き込まれ、三帝会戦(アウステルリッツの戦い)で惨敗し、フランツ2世は神聖ローマ皇帝の称号を自ら放棄して、神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。しかし、自らの支配領域であるオーストリアとハンガリー王国を中心としてオーストリア帝国を再編し、オーストリア皇帝フランツ1世として君臨した。またクレメンス・メッテルニヒを登用し、ウィーン会議で失地を回復した。
国家運営をすべてメッテルニヒら臣下に任せる場合が多かったが、質素な生活を好み、その在位も神聖ローマ皇帝時代・オーストリア皇帝時代を通して40年の長きにわたったため、晩年は国民からも親しみを込められて「善き皇帝フランツ」と称された 。

家族

生涯に4度結婚した。
妃:エリーザベト・ヴィルヘルミーネ(ヴュルテンベルク公フリードリヒ2世オイゲンの娘)
ルドヴィカ(1790年 - 1791年)
皇后:マリア・テレジア(イタリア名マリーア・テレーザ、両シチリア王フェルディナンド1世の王女)
マリア・ルイーゼ(1791年 - 1847年) - フランス皇帝ナポレオン1世の皇后、後にナイペルク伯アーダム・アーダルベルト(1784年 - 1829年)と再婚。
フェルディナント(1793年 - 1875年) - オーストリア皇帝
カロリーネ・レオポルディーネ(1794年 - 1795年)
カロリーネ・ルイーゼ(1795年 - 1799年)
マリア・レオポルディーネ(1797年 - 1826年) - ブラジル皇帝ペドロ1世の皇后
マリア・クレメンティーネ(1798年 - 1881年) - サレルノ公レオポルド妃
ヨーゼフ・フランツ・レオポルト(1799年 - 1807年)
カロリーネ・フェルディナンデ(1801年 - 1832年) - ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世妃
フランツ・カール・ヨーゼフ(1802年 - 1878年) - オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、メキシコ皇帝マクシミリアンの父
マリア・アンナ(1804年 - 1858年)
ヨーハン・ネポムク(1805年 - 1809年)
アマーリア・テレジア(1807年、流産)
皇后:マリア・ルドヴィカ・ベアトリクス(オーストリア=エステ大公フェルディナント・カール・アントンの公女)
皇后:カロリーネ・アウグステ(バイエルン王マクシミリアン1世の王女)

関連項目

ハプスブルク君主国
神よ、皇帝フランツを守り給え(フランツ・ヨーゼフ・ハイドン作曲。現在ではドイツ連邦共和国の国歌に、そのメロディーが流用されている)

  • 最終更新:2015-05-09 18:37:51

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